オタクとしての姿勢と記憶

私には兄が二人いる。

あまり仲良くは無いが、仲が悪いこともない。あまり一緒に過ごさなかったので親しくはないというのが正しいかもしれない。

年は離れてもいないし近すぎもしない。

いじめられるようなことは無かったが末っ子長女らしく可愛がられている訳でもない。

よくいるような、不干渉なタイプの兄弟だった。



兄二人と私はとにかく思い切り別種だった。

兄らはずっとクラブチームでサッカーをしていて、受験勉強とは縁がないタイプの学生だったが、私は特になんの取り柄もないのでヒイヒイ言いながら受験勉強をしていたし

外向的で友達が多く頻繁に外出している兄らに対して、私は滅多に友人と出掛けるようなことはない。

長兄はとにかく物事を深く考えないのだが、要領が良くて努力もできるので大きな問題もなく切り抜けることができる。

次兄は抜けたところがあるけれど、自分のやりたいことは自分でなんとかしてやるような、自立した人間だ。

二人とも愛すべき兄だ。




これから私がしたい話は兄の不名誉になるのだが、先に断っておくと、兄は私よりも数段優秀な人間で尊敬もしているし、希薄ながら関係は良好だ。






私は中学生に上がるタイミングで自分の部屋で寝るようになったので、その前後の時期にそれがあったのだと思う。


母と父と3人並んで寝ている時に何者かに下着を脱がされて陰部を触られたのが最初だと記憶している。


私は全身アトピー肌で母はよく寝入りばなの私の体に塗り薬をつけてくれたから、クリームを塗られるものと思って一瞬の覚醒のあと無抵抗でいた。

アレ?何かおかしいな?と思ったが結局タイミングを逃したままそれはすぐに終わって何者かは部屋を出て行った。その後も私はそれがなんだったのかよく分からないままだったが、特に追求しようとは思わなかった。



二回目で、それが長兄だと分かった。

ただ、極端に話すことが少なかった私には、下着を下されて目を覚ましたタイミングで兄と対面して何を言えばいいのか全く見当がつかず、そのまま狸寝入りを続けていた。

行為の意味はぼんやり分かったけれど、それに対する善悪みたいなものにはピンとこなかったし、若干の不快感は、そのシーンで兄と対面する気まずさよりも断然マシだった。


一番最初の時のことと、自分の部屋にも確か来たような気がする…程度のことしか記憶にはない。恐らく回数も少ないし期間も短かっただろうと思う。


自分にとっては大きな出来事では無かったのだろう、私はこれに関して大したことは覚えておらず、このことを思い出すことも無い。







「思い出すことも無い。」と言い切ったが、最近思い出した。十年も経った今だ。



夢中になっているゲームに登場するキャラクターのカップリングについて同ジャンルのオタクと地雷の話をしたときがそうだ。



私の一番好きなキャラは弟と同じアイドルグループに所属しており、私はその兄弟のカップリングがとにかく苦手だと語ったときに、相手から「自分に兄弟がいる人間は違和感あるのかもね〜」と言われたのがきっかけだった。


友人と別れた帰り道で、「私は兄弟カプを嗜むオタクは倫理観がイカれているのでは!?という気持ちだったが、そういえばギリギリかするような体験があるな……」というような感じでゆっくりと思い出したのだ。


正直、思い出したときはエ?これ現実か?と困惑し、そして自分が忘れていたことに大いに驚いた



少し気になったのでネットで検索し、色んな人が家族からの性的虐待を受けた苦痛を訴えていることを知った。


私は思い出した今もバレていたらと思うと気まずすぎて冷や汗モンだな!レベルの衝撃はあれど、苦痛を感じてはいない。

自分は程度も軽かったしな…という感じでふんわり納得しているが、これに関してはその軽重について論じるべきではないので自分でもよく分からない。



だが、私は兄弟間の恋愛をクソみたいな趣向だと思っているのである!



兄からのいたずらは本当のところ未だによく理解できておらず、何だったのか分からないというのが自分の所感で、兄弟カプも私は意味がわからないから嫌いなのだ。

どんなに筋道立ててこの二人の感情は恋愛感情だ!と言われても、論理的に納得できる内容にも理解不能だと感じてしまう。

この脳みそが理解できないと頑なに拒絶している感覚の共通に気付いて私は驚いた。 


兄の方に対しては怒りは抱いていないのだが、兄弟カプには怒りを感じる。



果たして私は兄に対してもキレているのだろうか?



それにしても、オタクは非現実に喜怒哀楽を握られていると思い込んでいたが、現実世界で培われ育まれた感受性や思考回路によって非現実に喜怒哀楽を見出しているのだなと感心してしまった。



私たちはどれほど非現実の世界にずぶずぶに浸ろうとも、現実世界でしか生きられないのだ。


受験勉強の話

私の母は四十代も終わりに近づいた頃、急に介護の仕事を辞め、看護学校に通い始めた。 私の大学受験の前年、母が看護学校の入学試験に臨んだ。この年は多分一生忘れないと思う。

 

進学校に通っていた私は他校より数か月早い部活動の引退試合を終え、もう無為な時間で青春時代を塗りつぶす罪悪感をこれ以上重ねなくて済むのだと、どこかホッとしながら「受験生」となった。

 

なったにはなったのだが、私は往生際の悪いことに周りから後れを取った分一生懸命追いつこうとはせず授業はサボりがちで保健室に頻繁にお世話になるようになっていた。

保健室の先生は2人いらして、年配の上品な先生と関西出身の若いおしゃべりな先生が二人で軽口をたたきあうのどかな空間が私を徹底的に甘やかした。

さらに三年生のクラス担任が苦手であったことも拍車をかけていた。

生徒人気も高く、とてもいい先生であったけれど、最強のクラスを作るぞ、と言う情熱が勉強に対しても学校行事に対しても努力できない私を責めているように感じられ、どうしても怖かったのだ。そんな恐怖心を抱いたクラスメイトがいるにも関わらず、最強のクラスですと言い切る先生には私は認知されていないような気がした。

教室では受験に向けた塾のような授業がキリキリとなされ、クラスに友達もいない私には週5で何時間も過ごせるような場所ではなかった。

 

 

一方母は、一番大変な実習の時期でレポートや専門学校の課題に夜遅くまで取り組み2時間ほどの睡眠ののち私の食事を作り学校に向かうような生活をしていた。「一生のうちこの時期だけでいいと思っていい、とにかく机に齧り付け」という高校教師が掲げた受験生の姿まさにそれだと思った。私は母に対して激しい劣等感をいだくようになった。

忙しい母は私が勉強もろくにしていないことに気づいていたのだろうか、気づいているのに受験生はナイーブだからね、と気遣ってくれていたのだろうか。何もかもが嫌だった。



それで負けまいと勉強をし始めるような根性があればよかったのだが、中途半端な劣等感を積み上げながら私は自分勝手に苦しんでいた。




私は、冗談ぽく愚痴を言うことはあれど、友達に真剣に悩み事について相談した経験が二十数年の人生の中で一度もない。

よし、言うぞ、絶対に聞いていただくぞ、と思ってもいざ話そうとすると結局半笑いでヘラヘラとした軽口のような愚痴しか出てこないのだビックリするほど。

私がそれをできたのは母だけだった。


人生で三度だけ慣れない悩み事相談をした。慣れなさ過ぎて毎回一週間くらいは悩み事そのものよりもどうやって母に伝えればいいかの方に頭を悩ませて、予行練習を重ねた。それなのに結局本番は大泣きして何も喋れなかった。母はそれでもゆっくり聞いてニコニコ笑って大したことないよ、と言って解決策を考えてくれた。


それで救われたかと言うと全くそんなことは無かった。私が求めてた慰めとは全然違った。私の悩みはいつだって「どうすればいいのか分かるのに、なぜ私は出来ないのか・しないのか」という一点に尽きるからだ。


しかし大泣きした姿を見て母に私が悩んでいるという事実を知ってもらったと言うだけで、その後すぐにどうでもよくなるのがならいだった。



それだけが私の悩みの解決方法だったけれど、まさか母に対して母への劣等感を語ることなんて出来ず、この悩みは誰にも言えなかった。


それで、なぜか試験が一通り終わったあとに許容量を超えてしまったらしい私は、保健医に言ってしまった。例の通り大泣きしながら。

もう受験勉強する必要がないのに勉強できない母に勝てないって泣きつかれた先生はきっとめちゃくちゃ困っただろうけど筋道の通らない私の話をずっと聞いていてくださった。





受験は何とか終わった。

希望した学科に受かったのだから大成功だったと言えるだろう。

同級生らから見れば、浪人しないの?というレベルの大学だけれど、私は十分満足だし、何より数学物理が苦手な私がこれ以上理系大学の受験問題を解くための勉強をするよりは専門性の強い大学での勉強をする方が断然いいと思った。




大学1,2年の間は県外のキャンパスに通うことになった。

自宅からは2時間程度だが、電車に長時間乗るのが苦手、三人兄弟全員実家住まいのため手狭になっている、一人暮らししておくと良いぞという兄の言葉、母から距離をおいて過ごしてみたい、とか色んな理由で一人暮らしをすることになった。


母は正看護師の資格を取得して病院で働き始めた。




大学生活は相変わらず勉強できない努力できない友達できないで自分勝手に大変に苦労したが、割愛する。


連休や長期休暇に会うと、以前よりもまっすぐ母を見ることができて、やはり浪人して自宅で母を見ながら勉強できない努力できないと悩むより、大学で一人で勉強できない努力できないと悩んでいる今の方が正解だったな、と思った。





母はそれから私と同い年くらいの若い人たちに混じって新人ナースとして1年間総合病院に勤めた。


若い人は優先的に学びが多い病棟に配属になるんだよ、と言う話を聞いたときに私は怒りを感じた。私の尊敬する人間を世界が尊重しないことに対して。

その怒りは今まで抱いたものとはまるきり異質でとても強かった。しかも、遣り場はない。

しかしその怒りは私の母に対する劣等感の裏側にある尊敬をはっきりと私自身に突きつけてきて、私は苦しい反面、解放されたような晴れやかな気持ちになった。


その尊敬の裏返しが私を苦しめた劣等感であった、という前半部の説明は全くの後付けで、正直なところどうであったのか分からないけれど、とにかく今、私は母のことが大好きだし、過去の自分の感情にそのように整理をつけた。


私は未だに母に負けず嫌いだなぁ、と笑われる度に過去に負けず嫌いと母への劣等感の悪魔合体により指一本動かせなくなっていたことを母に全て見通されているのか?と血の気が引くような思いをする。


それでも私は母への「好き」を正面から見られるように努力したし、これからもそのように努力していく。


部活とUの話



高校時代ほぼ毎日一緒に過ごした部活の同期とは、部活動引退後あっという間に長期休暇に一、二度に会うだけの仲になった。


今までずっと4人揃わなければ遊びに行く予定は反故になっていたから、1人は地方の大学に入学と相成り、なんとなく3人で遊ぶのに違和感が拭えずこのように一気に疎遠になってしまった。

いや、もともとあまり仲が良く無かったのかもしれない。

4人が4人とも部活動以外に接点は無く、クラスが一緒になっても喋らなかっただろうねと互いによく言い交わしていた。





Uは私にとって「クラスが一緒になっても喋らないタイプ」の最たる人物だった。



中学では調理部に所属しており、高校でも文化部を考えていたが、新入生勧誘会でハンドボールのデモプレーを見、先輩のかっこよさに惚れて入部を希望したという青春のきらめきそのもののような女の子だった。


可愛い顔と可愛い声で、部活動以外にも文化祭の実行委員会に参加するなどコミュニティか広く、(私は一切知らなかったが)三年間ほぼ途切れず彼氏がいた、そういう女の子だ。



ハンドボールは激しい身体接触の多いスポーツでその上運動量も多い。


彼女は入部後すぐシンスプリントを発症し、ずっと脚の痛みと付き合うハンドボールプレイヤーになってしまった。


このシンスプリントは運動をあまりしていなかった人が急激に強度の高い運動をし始めるとなるため、受験を終えて高校の運動部に入った一年生はよくかかるものだった。完治するものでは無いけれど、付き合いながらスポーツをしていくことは可能だ。


けれど、顧問の先生はたまに応援に来てくれるおじさん先生だけで、彼女は頑張りの限度も自分の強さも弱さも何も分からないまま悪化の一途を辿ってしまった。




さらに、たった4人の部員体制となり休むことも許されなくなった。私も彼女に休養を提案したくは無かった。自分らの練習が出来なくなるからだ。試合に出られるわけでも無いのに。



どれほど痛いのか、私は知らない。

Uが毎日早めに部室に来て丁寧にテーピングしているのも休憩中ずっと手癖のようにマッサージしているのも見てきたけれど、知らないから私は無理しない範囲で、と言いながらも練習を強いることしかできなかった。




私たちはよく話し合いの場を設けていた。

マネージャーで入部して途中から無理やりプレイヤーに転向してくれたRが頻繁にミーティングを開催してくれていたのだ。



夏休みが終わったころ、試合に出るには合同チームを組んでくれる高校が現れるのを待つのでは無理だとUが口火を切った。


そして色々な話をしてようやく私たちはぼぼ半数を助っ人で補うことになるが公式戦へ向けて動き出すことができたのだ。



その時のUの言葉が忘れられない。男子部の人に、何のために練習してるのか聞かれて私は何も答えられなかった、と悔しそうに悲しそうに言ったのだ。

ああ、本当に申し訳ないことをしてると一番胸に刺さった。


部長“らしい”ことの大体はして来たつもりだったけれど、本当にしなければいけないことや考えなければいけないことに何一つとして向き合ってこなかった。



全くの余談だが、これを言った男子が私が知らされていなかったUの何人目かの彼氏だった。




そういう訳で私はUに対して並々ならぬ尊敬の念を抱いていたし、それと同時に劣等感や後ろめたさを強烈に感じていた。





そのUと私は4人の中で一番距離の近い大学に進んだ。



Uはどの環境でも友達ができ、ケロリと以前のコミュニティとの関わりが薄くなるらしい。

可愛い見た目とは裏腹にとても強かで男前でクールで淡白なオンナなのだ。

(というのは卒業後にRからいろんな話を聞かされて知った。)



大学に進んでからもRはよく皆に連絡をくれた。

そして毎回めちゃくちゃ久しぶりだね!という挨拶で再会した。



前述のような片鱗は部活を抜きにして会って初めて私にも何と無くわかるようになった。


そして秘密主義で、ごめんちょっと、と可愛い声でお茶を濁すことがとても多いことも分かった。


低頻度でも会うたび大学生活があまりうまいこといってないようであることをはっきりと伺えたけれど、その理由は一切話してもらえなかった。





そして急に連絡がつかなくなった。




私とのLINEのトークルームが動かなくなった半年後、RがUから連絡が来た!と大騒ぎしながら伝えてくれ、近況を電話で報告しあったそうだ。

そしてなんとかRが調整をしてくれて私も合わせて三人で会う約束をした。

結局その日は集合時間に遅れる、という連絡がRにきたあと、21時を過ぎてもUが待ち合わせ場所に現れることは無かった。

そしてまたそれっきりでパタリと沙汰が止んでしまった。




とても強かで男前でクールで淡白なUはきっと元気に生きている。

同窓会で話を聞いた限りだと、割と普通に連絡が取れてる人もいた。





やはりUにとって高校の部活動はサイテーな思い出なのだろうか。

二度と会わないという言葉の無い意思表示こそがその答えであるような気がして


それともそらはただの自意識過剰というやつで、Uはクールに人間関係を整理しただけなのだろうか。





私はいつかトラウマから救われたい。だからみんなの遣る瀬無さが薄まった未来に絶対さりげなくこっそりと許しを乞おうと思っている。

しかし一番大きくて重いUへの罪悪感からは、忘却以外のものをもって逃れることはできないのかもしれない。





次の夏期休暇、初めて3人だけで計画をした3人だけの旅行をする。



私も他の2人もきっと拭いきれない違和感を抱くのだろう。


恋愛ドラマの話

最近自分のオタクとしての作品との向き合い方について考えることがあったので、書かせてもらう。



きっかけは、巷で噂のおっさんずラブを見始めたことだ。



とにもかくにも、セクシャリティを歪めることなく見れるblはめちゃくちゃ気持ちよくてびっくりした。


そもそもbl入ったのが一次創作小説サイトからという古めの女オタクだった私は、二次創作blの世界に結構無理をして生きてるのだなと改めて実感した。

blが好きなこととマンガやアニメが好きなことと二次創作が好きなことと全て別の話です、と他人にわかるよう言語化し、主張することは難しい。



私はキャラと他の関わりであるとか他人の言葉で語られる自己であるとかが一番好きな人間関係萌えのオタクなため、「好きな人」「恋人」というめちゃくちゃ重要ポイントを捏造する二次創作に対してはそれはもはやお前の作ったオリジナルのキャラなのでは?と思うこともしばしばある。


自分の理想の性的嗜好を持たせて、それを好き!というようなコンテンツの楽しみ方はどうにも肌に合わない。

設定として存在しない人間関係や感情を付与しておいて、これだからこのキャラが好きなんだ!と宣うのはいかがなものだろう。


私は作中に描かれている恋と愛が一番好きなのだ。

ただ、原作に存在する愛に違う名前が付されてしまったらという話もしたいのだ。





で、公式blのドラマが肌に合ったのかというと、全く合わなかった。


散々原作こそ至高!みた様なとこを書き連ねてきたが、私は勝手にキャラクターに理想を抱くし、勝手にこれはこういう意味に違いないと考える、捏造オタクと紙一重な自分勝手オタクだ。(恐らく他人の物差しで見れば私も捏造オタクの一員なのだろう。)




でも、それが、無かったのだ。


おっさんずラブを観てても誰かに何かを期待できない。

もちろん私もひとの心を持っているので牧くんに幸せになって欲しい〜!とか黒澤部長のかっこいいところ見せてくれ〜!とかそういう気持ちはあるのだが、そのために春田幸せにしてやってくれ〜!とか蝶子さん夫のことシャキッとさせてくれ〜!とかいうところまで頭が回らず、ただただ展開になるほど〜!としか言えない。


更には、ム!この表情、そしてあの時のセリフ…さては…!!みたいなことを考えるのが大好きな筈なのに、いや…あんまりひとの言動じっくりみて勝手に推測しようとするの失礼カナ…という思考になってしまい何も考えられない。


間違いなく二次元オタクで現実に全くまともな人間関係を築けていないド底辺人間故だろう。

三次元ビジュアルで動くキャラの人生を画面越しに搾取し消費する行為に、無意識下で現実と混同されてしまうせいで、申し訳なさを感じてしまうのだ。





なんということだろう。私は恋愛ドラマがまともに観られなくなってしまった。


気づかないうちに、私の人生から恋愛ドラマという一大娯楽ジャンルが失われてしまっていた。



ゆっくりとリハビリをしていきたい。

顔がいい人間たちが恋して愛するドラマを死ぬほど浴びながら療養生活をのんびり送りたい。

部活の話

私は大学受験の合格率だけが取り柄のような公立の進学校に通っていた。

この高校に合格するにあたり大変にお世話になった塾は高1の半ばで早々に辞め、学校の死ぬほど多い宿題は無視して、といった感じで制限の多い部活以外に私は何一つ頑張っていなかった。

 

自己肯定の拠り所となっていたハンドボール部は先輩の引退後残された部員はたったの4人。しかもその年の新入生はゼロ。

 

消去法で先輩からの指名を受けた私が部長となった部活はそんな弱小部活動だった。

 

 

女子ハンドボール部はどの高校でもマイナースポーツの常で部員数の不足に悩まされている為、強豪校以外はほぼ交代要員もいない状況で、さらに毎年合同チームが対戦表に2、3チーム混じっていた。

当然私たちも近所の高校と合同チームを組んで弱小ながらも汗を流してボールを追うのだと思っていた。ごく楽観的に。

 

結局私たちの代が初めて公式戦に出たのは最後の大会の一つ前、冬の市大会だった。

 

男子にグラウンドを譲りアスファルトの上で過ごした5か月間の放課後。

目標のない夏合宿。

学校から禁止されているために個人の遊びという名目をたてての早朝練習。

 

すべて私の積極性のなさとかそういう目も当てられない程情けない性質と、そして部員みんなのクソがつく程の真面目さのせいだ。

 

きっとみんな高校二年の大事な時間をこんな風に過ごす予定じゃなかったはずで、県ベストエイトの男子部の練習を横目に怪我だらけのボロボロの足で硬い地面の上を走るだけの放課後も日陰のない砂の上で終わらない休憩時間にじりじりと休日を潰されることも想定していなかったはずだ。


それでも4人とも引退で部活動から解放されるまで自分から辞めることはしなかった。


 

私は現役時代もそして冗談交じりに話せるようになってからも彼女らに部活を辞めたいか、辞めたいと思ったかどうしても聞きたい言ってしまいたいと思った。

みんなで顔を付き合わせて真面目な話をしたし、ときには感情的に怒鳴ってしまったこともあったのに、どれだけ気持ちが高ぶっても一度もそれを口に出せたことはない。

 



小学校の子供会のクラブ活動でキャプテンをして、中学の部活動ではたった1人の同期が先生に反抗的なヤンキーだったために部長を任された。


散々望んだわけでも望まれたわけでもないのにリーダーをやってきて、自分がめちゃくちゃリーダー業が苦手なことは割と早めに気づけたし、苦手なりにどうやってまとめ役をやればいいのか考えてきた。

 


結局、「部長らしいこと」をなるべく徹底した。自分は部長だから偉そうに振る舞うし、自分を棚に上げてる後ろめたさを無視して気になったことはどんどん言った。

慕われていない後輩に偉そうにするのも、同期に対して上から物を言うのも、周りが許してくれる人達だったお陰で苦にはならなかった。


いい部長では無かったけど、部長という仕事をするにはそういうシステムの方が私にはあっていたからそれでよかった。



でも、みんなはどうだっただろう。

体力も無くシュートも決められない私に、男子の練習に混ざりなよ、と言ってもらったのに曖昧に断った私に、 試合に出る算段もせずに練習をするだけだった私に高校時代を奪われた他のメンバーは、どう思ってたのだろう。



私以外の三人誰でもいいから部長が私でさえなければもっといい高校時代を送れたに違いない。そうやって思われている気がしてたまにとても怖くなる。


未だに許して欲しいと泣いてしまう日がある。私は高校の部活動という長くぼんやりと間延びしたトラウマを克服できずにいる。