受験勉強の話
私の母は四十代も終わりに近づいた頃、急に介護の仕事を辞め、看護学校に通い始めた。 私の大学受験の前年、母が看護学校の入学試験に臨んだ。この年は多分一生忘れないと思う。
進学校に通っていた私は他校より数か月早い部活動の引退試合を終え、もう無為な時間で青春時代を塗りつぶす罪悪感をこれ以上重ねなくて済むのだと、どこかホッとしながら「受験生」となった。
なったにはなったのだが、私は往生際の悪いことに周りから後れを取った分一生懸命追いつこうとはせず授業はサボりがちで保健室に頻繁にお世話になるようになっていた。
保健室の先生は2人いらして、年配の上品な先生と関西出身の若いおしゃべりな先生が二人で軽口をたたきあうのどかな空間が私を徹底的に甘やかした。
さらに三年生のクラス担任が苦手であったことも拍車をかけていた。
生徒人気も高く、とてもいい先生であったけれど、最強のクラスを作るぞ、と言う情熱が勉強に対しても学校行事に対しても努力できない私を責めているように感じられ、どうしても怖かったのだ。そんな恐怖心を抱いたクラスメイトがいるにも関わらず、最強のクラスですと言い切る先生には私は認知されていないような気がした。
教室では受験に向けた塾のような授業がキリキリとなされ、クラスに友達もいない私には週5で何時間も過ごせるような場所ではなかった。
一方母は、一番大変な実習の時期でレポートや専門学校の課題に夜遅くまで取り組み2時間ほどの睡眠ののち私の食事を作り学校に向かうような生活をしていた。「一生のうちこの時期だけでいいと思っていい、とにかく机に齧り付け」という高校教師が掲げた受験生の姿まさにそれだと思った。私は母に対して激しい劣等感をいだくようになった。
忙しい母は私が勉強もろくにしていないことに気づいていたのだろうか、気づいているのに受験生はナイーブだからね、と気遣ってくれていたのだろうか。何もかもが嫌だった。
それで負けまいと勉強をし始めるような根性があればよかったのだが、中途半端な劣等感を積み上げながら私は自分勝手に苦しんでいた。
私は、冗談ぽく愚痴を言うことはあれど、友達に真剣に悩み事について相談した経験が二十数年の人生の中で一度もない。
よし、言うぞ、絶対に聞いていただくぞ、と思ってもいざ話そうとすると結局半笑いでヘラヘラとした軽口のような愚痴しか出てこないのだビックリするほど。
私がそれをできたのは母だけだった。
人生で三度だけ慣れない悩み事相談をした。慣れなさ過ぎて毎回一週間くらいは悩み事そのものよりもどうやって母に伝えればいいかの方に頭を悩ませて、予行練習を重ねた。それなのに結局本番は大泣きして何も喋れなかった。母はそれでもゆっくり聞いてニコニコ笑って大したことないよ、と言って解決策を考えてくれた。
それで救われたかと言うと全くそんなことは無かった。私が求めてた慰めとは全然違った。私の悩みはいつだって「どうすればいいのか分かるのに、なぜ私は出来ないのか・しないのか」という一点に尽きるからだ。
しかし大泣きした姿を見て母に私が悩んでいるという事実を知ってもらったと言うだけで、その後すぐにどうでもよくなるのがならいだった。
それだけが私の悩みの解決方法だったけれど、まさか母に対して母への劣等感を語ることなんて出来ず、この悩みは誰にも言えなかった。
それで、なぜか試験が一通り終わったあとに許容量を超えてしまったらしい私は、保健医に言ってしまった。例の通り大泣きしながら。
もう受験勉強する必要がないのに勉強できない母に勝てないって泣きつかれた先生はきっとめちゃくちゃ困っただろうけど筋道の通らない私の話をずっと聞いていてくださった。
受験は何とか終わった。
希望した学科に受かったのだから大成功だったと言えるだろう。
同級生らから見れば、浪人しないの?というレベルの大学だけれど、私は十分満足だし、何より数学物理が苦手な私がこれ以上理系大学の受験問題を解くための勉強をするよりは専門性の強い大学での勉強をする方が断然いいと思った。
大学1,2年の間は県外のキャンパスに通うことになった。
自宅からは2時間程度だが、電車に長時間乗るのが苦手、三人兄弟全員実家住まいのため手狭になっている、一人暮らししておくと良いぞという兄の言葉、母から距離をおいて過ごしてみたい、とか色んな理由で一人暮らしをすることになった。
母は正看護師の資格を取得して病院で働き始めた。
大学生活は相変わらず勉強できない努力できない友達できないで自分勝手に大変に苦労したが、割愛する。
連休や長期休暇に会うと、以前よりもまっすぐ母を見ることができて、やはり浪人して自宅で母を見ながら勉強できない努力できないと悩むより、大学で一人で勉強できない努力できないと悩んでいる今の方が正解だったな、と思った。
母はそれから私と同い年くらいの若い人たちに混じって新人ナースとして1年間総合病院に勤めた。
若い人は優先的に学びが多い病棟に配属になるんだよ、と言う話を聞いたときに私は怒りを感じた。私の尊敬する人間を世界が尊重しないことに対して。
その怒りは今まで抱いたものとはまるきり異質でとても強かった。しかも、遣り場はない。
しかしその怒りは私の母に対する劣等感の裏側にある尊敬をはっきりと私自身に突きつけてきて、私は苦しい反面、解放されたような晴れやかな気持ちになった。
その尊敬の裏返しが私を苦しめた劣等感であった、という前半部の説明は全くの後付けで、正直なところどうであったのか分からないけれど、とにかく今、私は母のことが大好きだし、過去の自分の感情にそのように整理をつけた。
私は未だに母に負けず嫌いだなぁ、と笑われる度に過去に負けず嫌いと母への劣等感の悪魔合体により指一本動かせなくなっていたことを母に全て見通されているのか?と血の気が引くような思いをする。
それでも私は母への「好き」を正面から見られるように努力したし、これからもそのように努力していく。